ナイスカットGの悲劇
土曜日の朝は静寂に包まれていた。家の近くの元荒川は桜の季節も終わり、緑が芽吹き生命の輝きがあちらこちらで見られる。キッチンに立ち、いつものルーティンが始まる。コーヒーの時間だ。コーヒーを淹れる時に蒸らした豆から漂う香りで、家全体が目を覚ますような感覚が好きだ。
今日のコーヒーは山口珈琲店のコロンビア グランドロックS17/S18だ。ハリオのドリップスケールで25gを測った。
カリタのナイスカットGの前に立ち、グランドロックをミルに投入、後方に手を回し電源を入れた。静寂に包まれていた空間にミルの大きな音が響いたかと思ったその瞬間、期待とは裏腹にナイスカットGは止まった。静寂がさらに深まる。キッチンにかすかに焦げた臭いが漂ってきた。故障の原因には見当が付いた。異様な焦げた臭いが、さらに拡がってくる。
2018年以来、ナイスカットGは私の日々の相棒だった。すでに毎朝のコーヒーには欠かせない存在となっていた。ナイスカットGによる挽きたての豆はコーヒーの香りをより一層魅力的なものとし、注出する私の気持ちを高ぶらせた。すべてがこの小さな機械に詰まっていた。だが今、その相棒が動かなくなった。
焦げるものと言えばモーターだ。しかし、それは私の勘にすぎない。念のため説明書を取り出した。まずは故障部分が何処なのか、故障部分の切り分けができないか説明書を読んで確認した。役に立ちそうな情報は余りなかった。説明書に記されていたヒューズの交換を試すことにした。本体の底から予備のヒューズを取り出し、本体後方にあるヒューズ格納部分のつまみを捻り古いヒューズを取り出す。ヒューズは切れていた。新しいものと慎重に交換した。電源を再び入れると、数秒間だけ動作音が聞こえた。しかし、それも束の間、再びヒューズが飛んだ。
「このヒューズの予備に意味があるのか。いや、ヒューズの問題ではないことを確認するのに役に立つのかもしれない。」一人呟いた。
とにかく分かっていることは、毎日コーヒー豆を挽いてきたナイスカットGが、突然の死を迎えたということだった。そして、それはヒューズの問題ではない。
原因調査
インターネットで私の相棒の状況を調べると、同様のケースが散見された。どうやらこのモデルには共通の弱点があるらしかった。修理には2万5千円ほどかかるという書き込みもあった。2018年当初、2万円で購入したことを考えると、修理代の方が高くつく。
新品の価格をインターネットで調べると4万円だった。ビバ、インフレ。
カリタのナイスカットGとの日々を思い返した。初めてこのミルを手に入れた時の喜び、新鮮なコーヒーの香りに包まれた朝。すべてが鮮明に蘇る。その思い出を胸に、修理するべきか、新しいものを手に入れるべきか。決断は容易ではなかった。
リビングのテーブルに座り、頭を抱えた。手元のスマートフォンにはナイスカットGの修理について同様の体験をした人の見つけた情報が散らばっている。修理するべきか、それとも新しいミルを購入するべきか。2万5千円以上かけて修理しても、再び同じ問題が発生するかもしれない。一方、新しいミルを買うとなると、再び馴染み相棒となる信頼関係を築くには時間と労力が必要だ。
私は深いため息をつき、コーヒーの香りが漂わないキッチンに佇む。ナイスカットGとの別れは、思った以上に苦しいものだった。長年連れ添った相棒との別れは、どんなに小さなものであっても心に響く。新しいミルを手に入れる決心を固めるためには、もう少し時間が必要だった。
臨時の相棒
決断を先送りにした後、私はカリタのドーム型ミルを手に取った。手動で豆を挽く感触が懐かしくも新鮮だった。ハンドルを回すと、機械とは違った人間の手作業による温かみを感じることができた。このドーム型ミルは、シンプルでありながらも堅実な作りをしていた。ハンドルに手を掛け回していく。手に伝わってくるコーヒー豆を砕く感触に、毎日の忙しさから一瞬だけ解放される気がした。
キッチンにはドームミルの音が響く。ゆっくり豆を挽くことで、コーヒーの香りが徐々に広がっていった。ナイスカットGが再び動くことはないだろうが、この静かな朝に新たな一歩を踏み出すための準備が整った。ハンドルを回し続けることで、私は新しい相棒との生活に慣れていくことができるだろう。
ケトルからドリップポットに沸いたお湯を移した。グランドロックはカリタのウェーブドリッパーで抽出することに決め、ドリップスケールとサーバーをセットした。湯温が90度まで下がるのを待って、コーヒーを淹れた。膨らんだコーヒー豆の香りが、キッチン全体に広がり、この週末もスタートしたのだった。
グランドロックの抽出が終わったとき、ナイスカットGとの思い出を胸に、新しい日々を迎えるための準備が整った。この臨時で投入された古き良きドーム型ミルは良い働きをしたが、この手回しを毎日続けるかと思うと希望ばかりではないと感じていた。
「やはり、新たな相棒が必要だな」
この静かな朝に新しい相棒と香り高いコーヒーを楽しむ日が来ることを待ち望みながら、私はカリタのドーム型ミルを棚に戻した。グランドロックは最高の味だった。